「順調に練習を積んできたのに、レース当日に限ってお腹が痛くなったらどうしよう」
フルマラソンやハーフマラソンに挑戦するランナーにとって、足の痛みと同じくらい、あるいはそれ以上に切実な悩みが「お腹のトラブル」です。特に走行中の突然の便意や下痢は、タイムロスになるだけでなく、精神的にも大きなダメージを与えます。
実は、長距離走に伴う下痢や腹痛は「ランナーズ・トロッツ(Runner’s Trots)」とも呼ばれ、初心者からエリート選手まで多くのランナーが経験する一般的な現象です。しかし、その原因を正しく理解し、適切な準備を行えば、リスクを大幅に減らすことができます。この記事では、なぜマラソンで下痢が起きるのかという根本的な原因から、食事調整、当日の緊急対策、そして普段からできるトレーニングまで、お腹の不安を解消するための情報をやさしく解説します。
なぜマラソンで下痢になるのか?主な原因を知ろう

マラソン中に下痢や腹痛が起こるのには、医学的・生理学的な明確な理由があります。「たまたま運が悪かった」や「お腹が弱い体質だから」と諦める前に、まずは体がどのような状態になっているのかを理解しましょう。原因を知ることで、自分に合った対策が見えてきます。
上下動による内臓への物理的な衝撃
ランニングは、体が常に上下に弾む運動です。一歩ごとに体重の数倍の衝撃が着地時にかかりますが、これは骨や筋肉だけでなく、体内にある臓器にも影響を与えます。胃や腸などの消化器官は、走っている間中、上下に激しく揺さぶられ続けることになります。
この物理的な「揺れ」が長時間続くことで、腸の粘膜が刺激され、蠕動(ぜんどう)運動が過剰に活発になってしまうことがあります。本来であれば時間をかけて水分を吸収しながら進むはずの便が、揺れの刺激によって急速に肛門へと押し出されてしまうのです。これが、普段の生活では便秘気味の人でさえ、レース中には下痢になってしまう大きな要因の一つです。特にフォームが上下に大きく弾む走り方をしている場合や、腹筋などの体幹が弱って内臓を支えきれなくなってくると、この影響をより強く受けやすくなります。
血液配分による消化機能の低下(虚血)
運動中、私たちの体は酸素と栄養を必要としている筋肉へ優先的に血液を送ろうとします。安静時には内臓にも多くの血液が流れていますが、激しい運動を始めると、その血液は脚などの活動筋へと再分配されます。研究によると、最大強度の運動時には、消化管への血流が安静時の20%程度まで減少することもあると言われています。
血液が十分に回らなくなった胃腸は、一時的に「虚血(きょけつ)」という酸素不足の状態に陥ります。これにより、消化吸収能力が極端に低下し、腸のバリア機能も弱まってしまいます。この状態で補給食などを摂取すると、うまく吸収されずに未消化のまま腸内に残り、浸透圧性の下痢を引き起こす原因となります。また、虚血状態から血流が戻る際にも炎症反応が起きることがあり、これも腹痛や不快感の引き金となります。
レース前の食事や補給食の影響
「エネルギーを蓄えなければ」と、レース直前に食べたものが逆効果になるケースも少なくありません。特に食物繊維の多い食品や、脂肪分の多い食事は消化に時間がかかります。スタート時点でまだ胃や腸の中に未消化の食べ物が残っていると、走行中の揺れと血流不足が重なり、下痢のリスクが跳ね上がります。
また、レース中に摂取するエナジージェルなどの補給食も注意が必要です。これらには高濃度の糖質が含まれていますが、一度に大量に摂取すると、腸内の浸透圧が急激に高まります。すると、腸は濃度を薄めようとして体内の水分を腸管内へ引き込みます。この水分によって便が液状化し、急激な下痢(浸透圧性下痢)を誘発することがあるのです。人工甘味料が体質に合わず、お腹が緩くなるランナーもいます。
緊張やストレスによる自律神経の乱れ
「脳腸相関(のうちょうそうかん)」という言葉があるように、脳と腸は自律神経を通じて密接につながっています。マラソン大会当日は、スタート前の独特な雰囲気、タイムへのプレッシャー、トイレの混雑など、知らず知らずのうちに強いストレスや緊張を感じているものです。
緊張すると交感神経が優位になりますが、過度なストレスは自律神経のバランスを崩し、腸の異常収縮を引き起こすことがあります。「過敏性腸症候群(IBS)」の傾向がある人は特にこの影響を受けやすく、精神的なプレッシャーがかかっただけで急激な便意をもよおすことがあります。スタートラインに並んでいる最中にお腹が痛くなるのは、この精神的な要因が大きく関わっています。
レース数日前から当日朝の食事対策

マラソンでの下痢を防ぐための戦いは、スタートラインに立つ数日前から始まっています。特に重要なのが「何を食べるか」、そして「いつ食べるか」です。胃腸への負担を極限まで減らし、かつエネルギーを満タンにするための食事戦略を立てましょう。
避けるべき「高FODMAP」食品と食物繊維
普段の健康維持には欠かせない「食物繊維」や「発酵食品」ですが、レース直前においては下痢のリスクを高める要因となり得ます。特に腸内で発酵しやすく、ガスや水分の貯留を招きやすい糖質を含む食品群を「FODMAP(フォドマップ)」と呼びますが、お腹が弱いランナーはレース2〜3日前からこれらの摂取を控える「低FODMAP食」を意識することをおすすめします。
具体的に避けたほうがよい食材と、代わりに選ぶべき食材を整理しました。以下の表を参考に、レース前のメニューを組み立ててみてください。
| 分類 | レース前は控える食品(高FODMAP・高繊維) | レース前におすすめの食品(低FODMAP・低残渣) |
|---|---|---|
| 穀物 | 玄米、全粒粉パン、オートミール、ラーメン、パスタ(小麦) | 白米、お餅、十割そば、米粉パン、うどん(少量なら可) |
| 野菜・芋 | ごぼう、さつまいも、玉ねぎ、ブロッコリー、きのこ類 | にんじん、大根(煮たもの)、ほうれん草(葉先)、じゃがいも |
| 豆類・乳製品 | 納豆、大豆製品全般、牛乳、ヨーグルト | 豆腐(木綿)、豆乳(少量)、ラクトースフリー牛乳 |
| その他 | 海藻類(わかめ、ひじき)、カフェイン飲料、人工甘味料 | 卵、白身魚、鶏ささみ、バナナ(熟したもの) |
スタート3〜4時間前の朝食ルール
食べたものが胃で消化され、小腸へ送り出されるまでには、一般的に約3〜4時間かかると言われています。そのため、レース当日の朝食は、スタート時間の3〜4時間前には食べ終えるのが鉄則です。例えば、9時スタートの大会であれば、遅くとも5時〜6時の間には食事を済ませておきましょう。
メニューは、消化が良くエネルギーになりやすい糖質(炭水化物)を中心します。お餅や白米のおにぎり、カステラなどがおすすめです。脂質やタンパク質は消化に時間がかかるため、当日の朝は極力控えます。また、朝起きてすぐに冷たい水をガブ飲みすると腸を刺激してしまうので、常温の水や白湯を少しずつ飲むように心がけてください。「どうしてもお腹が空く」という場合は、スタート1時間前くらいに消化の良いエネルギーゼリーを摂る程度に留めましょう。
カーボローディングと消化の良さのバランス
フルマラソンでは、体内に糖質(グリコーゲン)を貯蔵する「カーボローディング」を行うランナーも多いでしょう。しかし、普段食べ慣れない大量の炭水化物を急に摂取すると、胃腸が驚いて調子を崩すことがあります。特にパスタやパンなどの小麦製品は、人によってはお腹が張りやすくなる原因になります。
お腹が弱いランナーの場合、無理なカーボローディングは禁物です。普段から食べ慣れている「お米」を中心に、少し量を増やす程度(「カーボローディング」というよりは、胃腸を整える「ウォーターローディング」や「コンディション調整」の意識)で十分です。前日の夕食も、揚げ物や生もの(刺身など)は食中毒や消化不良のリスクがあるため避け、うどんや雑炊など、温かくて消化の良いものを選びましょう。満腹まで食べ過ぎず、腹八分目で抑えておくことも翌朝の快便につながります。
走行中にお腹が痛くなった時の緊急対処法

どれだけ準備をしても、レース当日の体調や気象条件によっては、走行中にお腹が痛くなってしまうことはあります。そんな時、パニックにならずに冷静に対処するための方法を知っておくだけで、精神的な余裕が生まれます。
ペースを落として内臓の揺れを抑える
「お腹が痛い」と感じたら、まずは勇気を持ってペースを落としましょう。無理をして走り続けると、内臓への衝撃が続き、症状が悪化する一方です。ペースを落とすことで、内臓の上下動が小さくなり、物理的な刺激を和らげることができます。
もし痛みが強い場合は、一時的にウォーキングに切り替えても構いません。背筋を伸ばして歩き、深呼吸をしてお腹に酸素を送り込むことで、副交感神経が優位になり、腸のけいれん性の痛みが落ち着くことがあります。数分間歩いて痛みが治まれば、またゆっくりと走り出すことができます。「歩いたら終わり」と思わず、「回復のための戦略的ウォーキング」と捉えてください。
トイレの場所を確認し無理せず利用する
「トイレに行くとタイムロスになる」という焦りが、逆にストレスとなって腹痛を悪化させることがあります。大規模な市民マラソンでは、数キロごとに仮設トイレが設置されています。コースマップで事前にトイレの設置場所をチェックしておき、「次のトイレまでは頑張ろう」「あそこで入れば大丈夫」と精神的な逃げ道を作っておくことが大切です。
我慢して走り続けると、フォームが崩れて足への負担が増えたり、脱水症状を見逃したりするリスクもあります。一度トイレに入ってすっきりした方が、その後のペースが上がり、結果的にトータルのタイムが良くなることも珍しくありません。トイレタイムも含めたレースプランと考え、早めの決断を心がけましょう。
下痢止め薬(ストッパなど)の活用術
どうしても不安な場合は、市販の下痢止め薬を携帯することも有効な手段です。マラソンランナーの間では、水なしで飲める「口内崩壊錠(OD錠)」タイプの下痢止め(商品名「ストッパ」など)がよく利用されています。これらは唾液ですぐに溶けるため、給水所がない場所でも走りながら服用することができます。
ただし、薬には副作用のリスクもあります。例えば、腸の動きを止めるタイプの薬は、レース後に便秘を引き起こす可能性があります。また、体に合わない成分が含まれている場合もあるため、必ず「練習中のロング走」などで一度試して、体に異常が出ないか確認しておくことが重要です。レース本番で初めて使うことは避けましょう。「薬を持っている」という安心感だけでも、精神的な腹痛予防になります。
服装や準備でできるお腹の冷え対策

マラソン大会のシーズンは秋から冬にかけてが中心です。スタート前の寒さや、走行中にかいた汗が冷える「汗冷え」は、お腹のトラブルの大きな原因となります。胃腸は冷えると血流が悪くなり、機能が低下して下痢を起こしやすくなるため、徹底した保温対策が必要です。
腹巻きや機能性インナーの活用
お腹の冷えを守る最強のアイテムが「腹巻き」です。最近では、スポーツ用の薄手で速乾性に優れた腹巻きが多く販売されています。綿素材のものは汗を吸った後に乾きにくく、逆に冷えの原因になることがあるため、ポリエステルやポリプロピレンなどの「疎水性(水を弾く性質)」が高い素材や、発熱保温素材(ブレスサーモやヒートテックなど)を使用したものを選びましょう。
腹巻きがない場合は、ウェアの下に着るインナーの丈が長いものを選び、タイツの中にしっかりインするだけでも違います。お腹周りに直接風が当たらないようにするだけで、腸の温度低下を防ぎ、正常な働きを維持しやすくなります。
スタート前の防寒対策とカイロの貼り方
大規模なマラソン大会では、荷物を預けてからスタートの号砲が鳴るまでに、30分〜1時間以上整列して待機しなければならないことがあります。この間に体が冷え切ってしまうと、スタート直後から尿意や便意に襲われることになります。
スタート直前まで着用できる使い捨てのビニールポンチョ(100円ショップのレインコートや大きなゴミ袋で代用可能)を被り、体温を逃さないようにしましょう。また、貼るカイロを活用するのも効果的です。貼る場所は、おへその下にある「丹田(たんでん)」というツボのあたりや、腰の仙骨付近がおすすめです。ただし、走り出すと体温が上がるため、熱くなりすぎないよう注意が必要です。スタート直前に剥がして捨てられるようにしておくか、低温やけどに注意して貼ったまま走るか、事前の練習で試しておくと良いでしょう。
ウェアの締め付けすぎに注意する
コンプレッションタイツやサポート機能付きのウェアは、筋肉の揺れを抑えて疲労を軽減してくれますが、お腹周りの締め付けが強すぎるものは逆効果になることがあります。腹部が圧迫されると、腸の自然な動きが妨げられたり、血流が悪くなったりして、腹痛の原因になることがあるのです。
特にウエストのゴムがきついパンツや、サイズが小さすぎるタイツは避けるようにしましょう。紐で調整できるタイプであれば、走行中に苦しくなった時に緩められるようにしておきます。新品のウェアをレース当日に初めて着るのも、締め付け具合がわからないため危険です。必ず何度か洗濯し、体に馴染んだウェアで本番に臨んでください。
普段の練習からできる胃腸トレーニング

マラソンの練習というと、脚力や心肺機能を鍛えることばかりに目が行きがちですが、「胃腸を鍛える」ことも完走に向けた重要なトレーニングです。本番に強いお腹を作るために、日頃から取り組めることを紹介します。
自分の胃腸に合う補給食を見つける実験
エナジージェルやスポーツドリンクには相性があります。あるメーカーのジェルは大丈夫でも、別のメーカーのものは下痢をする、といった個人差が非常に大きいです。これをレース本番で見極めるのは不可能です。
週末の20km走や30km走などのトレーニング時に、本番で食べる予定の補給食を実際に摂取して走ってみましょう。「食べてすぐに走るとお腹が痛くなるか」「どのタイミングで摂るのがベストか」「味に飽きがこないか」などを実験します。固形物が良いのか、ジェルが良いのか、あるいは水に溶かすタイプが良いのか。自分だけの「鉄板の補給パターン」を見つけておくことが、当日のお腹の不安を払拭する最大の武器になります。
揺れに慣れるためのジョギング習慣
内臓も筋肉と同じで、ある程度の刺激には慣れることができます。普段から定期的に走ることで、内臓は上下動の衝撃に徐々に適応していきます。初心者のうちは少し走るだけで脇腹が痛くなったりお腹が緩くなったりしますが、トレーニングを継続することで、内臓を支えるインナーマッスル(腹横筋など)が強化され、揺れ自体が軽減されていきます。
また、食事をしてから走るまでの時間を徐々に短くしてみるトレーニング(ガット・トレーニング)を取り入れている上級者もいます。ただし、これは無理をすると消化不良を起こすので、あくまで体調を見ながら慎重に行ってください。基本的には、規則正しく走り続けることで、腸の自律神経の働きが整い、排便のリズムも安定してきます。
規則正しい生活リズムと排便習慣
「レース当日の朝、スタート前にスッキリ排便できるか」が、その日の運命を左右すると言っても過言ではありません。そのためには、普段から「朝の決まった時間にトイレに行く習慣」をつけておくことが何より重要です。
毎朝、起きたらコップ一杯の水を飲み、朝食を摂る。そして便意がなくてもトイレに座る時間を設ける。これを繰り返すことで、体は「朝食後=排便タイム」と記憶します。生活リズムが乱れていると、自律神経も乱れ、便秘や下痢を繰り返しやすくなります。良質な睡眠と規則正しい食事は、最高のランニングパフォーマンスを生む土台となります。レースの1週間前からは特に、消化の良い食事と早寝早起きを徹底し、腸内環境(コンディション)を整えることに集中しましょう。
マラソンと下痢の悩みを解消して完走を目指そう
マラソンにおける下痢や腹痛は、決して恥ずかしいことではなく、走るという行為のメカニズム上、誰にでも起こりうる生理現象です。しかし、その原因が「揺れ」「血流不足」「食事」「冷え」「ストレス」のどこにあるのかを推測し、事前に対策を打つことで、トラブルの確率は劇的に下げることができます。
レース前はFODMAPを意識した食事調整を行い、当日はお腹を冷やさないウェア選びと、無理のないペース配分を心がけてください。そして何より、万が一お腹が痛くなっても「トイレに行けば大丈夫」「薬があるから安心」と、心に余裕を持つことが大切です。お腹の不安を取り除き、軽やかな体と心でフィニッシュラインを駆け抜けましょう。





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