マラソンの語源とは?歴史と由来をわかりやすく解説

マラソンの語源とは?歴史と由来をわかりやすく解説
マラソンの語源とは?歴史と由来をわかりやすく解説
【知識・情報収集】マラソンをもっと深く知る

長距離走の代名詞として世界中で親しまれている「マラソン」。学校の持久走大会やテレビで観る駅伝、そして市民ランナーが参加するマラソン大会など、私たちの生活にとても身近なスポーツです。しかし、なぜ42.195kmという半端な距離を走るのか、そしてそもそも「マラソン」という言葉がどこから来たのか、詳しく知っている人は意外と少ないのではないでしょうか。

実は、その語源をたどっていくと、古代ギリシャの歴史的な戦争や、一人の兵士の命がけの走り、さらには近代オリンピックでのイギリス王室の逸話など、驚くようなドラマが隠されているのです。普段何気なく使っている言葉の背景には、数千年にわたる人々の想いが詰まっています。

この記事では、マラソンの語源となった「マラトンの戦い」から、距離が決まった経緯、そして日本での歴史までを、物語を紐解くようにやさしく解説します。走るのが好きな人も、歴史に興味がある人も、知ればきっと誰かに話したくなるマラソンの豆知識をたっぷりとお届けします。

マラソンの語源となった「マラトンの戦い」

マラソンという言葉の起源は、今から約2500年前の古代ギリシャにまでさかのぼります。スポーツの大会名として定着するずっと前、それは一つの地名であり、国運をかけた大きな戦争の舞台でもありました。ここでは、マラソンの原点となった伝説的な戦いと、そこにまつわるエピソードについて詳しく見ていきましょう。

ギリシャ軍がペルシャ軍を破った歴史的勝利

紀元前490年、当時の大国であったアケメネス朝ペルシャは、ギリシャへの侵攻を開始しました。圧倒的な軍事力を誇るペルシャ軍に対し、迎え撃つアテナイ(現在のアテネ)を中心としたギリシャ連合軍は兵力で大きく劣っていました。この時、ペルシャ軍が上陸した場所が、アテネの北東約40kmに位置する「マラトン」という海岸平野でした。

アテナイの名将ミルティアデスは、地形を巧みに利用した戦術でペルシャ軍を迎え撃ちます。アテナイ軍は重装歩兵による密集陣形(ファランクス)を組み、敵の両翼を包囲するようにして猛攻撃を仕掛けました。数で勝るはずのペルシャ軍はこの奇襲攻撃に混乱し、多くの死傷者を出して撤退を余儀なくされます。

この「マラトンの戦い」は、ギリシャ世界が巨大帝国ペルシャの侵攻を食い止めた最初の大きな勝利として、歴史に深く刻まれることになりました。もしこの戦いでアテナイが敗れていれば、その後の西洋文明の歴史は大きく変わっていたかもしれないと言われるほど、極めて重要な意味を持つ戦いだったのです。

勝利を伝えるために走った兵士フィリッピデス

マラソンの起源として最も有名なエピソードは、この戦いの直後に生まれます。マラトンの地でペルシャ軍を撃退したアテナイ軍は、故郷で不安にかられて待つ人々へ一刻も早く勝利の知らせを届ける必要がありました。そこで伝令として選ばれたのが、フィリッピデス(またはフェイディピデス)という一人の兵士でした。

彼は武具を捨て、マラトンの戦場からアテネのアクロポリスまでの約40kmの道のりを、休むことなくひたすら走り続けました。険しい道のりを駆け抜け、ついにアテネの城門にたどり着いた彼は、待ちわびる市民たちに向かってこう叫んだと言われています。

「喜べ、我ら勝てり!」(ネンニケーカメン)

そして、その言葉を伝えた直後、彼は力尽きてその場に倒れ、息を引き取ってしまったのです。この劇的で悲劇的な伝説が、後の「マラソン」という競技の精神的な支柱となり、限界に挑むランナーたちの象徴として語り継がれることになりました。

「マラトン」という地名は植物のウイキョウが由来

ところで、戦いの舞台となった「マラトン(Marathon)」という地名には、意外な由来があることをご存じでしょうか。実はこの言葉、古代ギリシャ語で「ウイキョウ(フェンネル)」という植物を意味する言葉に関連しているのです。

ウイキョウは、甘い香りが特徴のハーブの一種で、現在でも料理のスパイスや薬草として広く使われています。当時のマラトンの野原には、このウイキョウが一面に群生していたため、その土地は「ウイキョウの畑」という意味を込めて「マラトン」と呼ばれるようになったのです。

ウイキョウ(フェンネル)とは?
地中海沿岸が原産のセリ科の植物です。魚料理の臭み消しや、ハーブティーとして親しまれています。古代ギリシャでは、勝利の象徴としてウイキョウの茎を掲げる習慣もあったと言われており、マラソンの語源がこの植物にあるというのは不思議な縁を感じさせます。

激しい戦争の舞台となった場所が、実は香り高いハーブの名前に由来していたというのは、歴史の面白いコントラストです。もしその場所に別の植物が生えていたら、私たちが知る「マラソン」は全く違う名前になっていたかもしれません。

伝説と史実の違いとは?スパルタへの伝令説

私たちがよく知る「勝利を伝えて息絶えた兵士」の話ですが、実は歴史学的な視点から見ると、後世の創作が含まれている可能性が高いとされています。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが記した『歴史』という書物には、少し違った記述が残されているのです。

ヘロドトスの記述によれば、フィリッピデスは戦いの「後」ではなく「前」に、アテネからスパルタへ援軍を要請するために走ったとされています。その距離はなんと約250km(またはそれ以上)と言われており、彼はこの長距離をわずか2日で走破したというのです。これは現代の「ウルトラマラソン」や「スパルタスロン」に匹敵する、あるいはそれ以上の驚異的な健脚ぶりです。

「勝利を報告して死んだ」という劇的なエピソードは、戦いから数百年後のローマ時代の著述家プルタルコスらによって広められたものだという説が有力です。しかし、史実がどうであれ、国のために命がけで走った兵士がいたという事実と、その精神性は、時代を超えて人々の心を打ち、近代オリンピックでの競技採用へと繋がっていったのです。

オリンピック競技としての「マラソン」の始まり

古代の伝説から長い時を経て、「マラソン」がスポーツ競技として蘇ったのは19世紀末のことでした。近代オリンピックの幕開けとともに、この伝説は新たな形で現代に蘇り、世界中の人々を熱狂させることになります。ここでは、第1回アテネオリンピックでのマラソン採用の経緯とそのドラマを紹介します。

第1回アテネ大会でのドラマチックな採用

1896年、ギリシャのアテネで記念すべき第1回近代オリンピックが開催されました。この大会のハイライトとして企画されたのが、古代の伝説を再現する長距離走「マラソン」でした。この新競技は、当時の人々にとって単なるスポーツ以上の意味を持っていました。

開催国であるギリシャの人々にとって、古代の栄光を取り戻すことは悲願でした。陸上競技の他の種目でアメリカ勢などが圧倒的な強さを見せる中、最後の種目であるマラソンに対する地元の期待は最高潮に達していました。コースは、かつてフィリッピデスが走ったとされるマラトンの古戦場からアテネの競技場までが選ばれました。

当時の人々は、人間が一度に40kmもの距離を走れるのかどうか、半信半疑な部分もありました。しかし、それは未知への挑戦というスポーツの原点でもありました。この新しい試みは、観衆に強烈なインパクトを与え、オリンピックを象徴する競技としての地位を確立することになります。

提案者ミシェル・ブレアルとクーベルタン男爵

マラソン競技の創設を強く提案したのは、フランスの言語学者であり歴史家でもあったミシェル・ブレアルという人物です。彼は近代オリンピックの提唱者であるピエール・ド・クーベルタン男爵の友人でもありました。

ブレアルは、クーベルタン男爵がオリンピック復興の計画を進めていることを知り、「もし古代の故事にならって、マラトンからアテネまで走る競技を行うなら、その優勝者にトロフィーを寄贈しよう」と申し出ました。彼は古代ギリシャの歴史や文化に深い造詣があり、フィリッピデスの伝説を現代に蘇らせることが、大会に歴史的な重みと物語性を与えると考えたのです。

クーベルタン男爵もこのアイデアに賛同し、マラソンは第1回大会の正式種目として採用されました。もしブレアルの提案がなければ、今日のマラソン競技は存在していなかったかもしれません。彼の情熱とアイデアが、伝説を現実のスポーツへと昇華させたのです。

初代王者スピリドン・ルイスと国民の熱狂

第1回アテネ大会のマラソンには、ギリシャ国内外から17名の選手が参加しました。レースは過酷を極め、途中で脱落する選手が続出しました。そんな中、トップで競技場に姿を現したのは、地元ギリシャのスピリドン・ルイスという選手でした。

ルイスは普段は水を運ぶ仕事などをしていた慎ましい人物でしたが、このレースで見せた粘り強い走りは英雄的でした。彼が競技場に入ってくると、観客席からは割れんばかりの大歓声が巻き起こりました。興奮のあまり、当時のギリシャ皇太子たちがトラックに降りてきて、ルイスの伴走をしたという逸話も残っています。

彼が2時間58分50秒でゴールテープを切った瞬間、ギリシャ全土が歓喜に包まれました。この勝利によって、マラソンは単なる競技を超え、国民的な誇りの象徴となりました。スピリドン・ルイスの名は、初代マラソン王者として、今もオリンピックの歴史に燦然と輝いています。

当時の距離は約40kmだった理由

現在、フルマラソンの距離といえば「42.195km」ですが、第1回アテネ大会で行われたマラソンの距離は、それとは異なっていました。当時のコースは、マラトンの古戦場からアテネのパナシナイコ競技場までの実測距離に基づいており、およそ「40km」とされていました。

実は、初期のオリンピックにおいては、マラソンの距離は厳密に統一されていませんでした。「マラトンからアテネまでの故事を再現する」というコンセプトが重要であり、開催地のコース事情に合わせて「およそ40km」の距離であればよいとされていたのです。そのため、その後のパリ大会やセントルイス大会でも、距離は毎回微妙に異なっていました。

このように、マラソンは最初から42.195kmと決まっていたわけではなく、歴史の積み重ねの中で少しずつルールが整備されていったのです。その距離が固定されるまでには、さらにいくつかのドラマチックな出来事が必要でした。

なぜ距離は「42.195km」という半端な数字なのか

マラソンについて最もよく聞かれる疑問の一つが、「なぜ42.195kmという中途半端な距離なのか」という点です。きりの良い40kmや42kmではなく、なぜ「195メートル」という端数がついているのでしょうか。その答えは、イギリスで行われたある大会での「王室の要望」と、一人のランナーの悲劇に隠されています。

ロンドンオリンピックでのコース変更

距離が決定的な転機を迎えたのは、1908年に開催された第4回ロンドンオリンピックでのことでした。当初、この大会のマラソンコースは、ウィンザー城からシェファードブッシュ競技場までの約26マイル(約41.8km)で計画されていました。

しかし、大会直前になってコースの一部に変更が加えられることになります。それは競技的な理由からではなく、当時のイギリス王室、特にアレキサンドラ王妃からの要望によるものだったと言われています。

イギリス王妃の「ある要望」が距離を延ばした

伝えられている話によると、王妃は「スタート地点は、宮殿の窓から孫たちがレースを見られるように、ウィンザー城の庭にしてほしい」と希望しました。さらに、ゴール地点についても「競技場のロイヤルボックス(王室専用席)の目の前に設定してほしい」というリクエストがあったとされています。

この要望に応えるため、コースの微調整が行われました。その結果、ウィンザー城の庭から競技場のロイヤルボックス前までの距離を厳密に測ったところ、26マイルと385ヤードになりました。これをメートル法に換算すると、およそ42.195kmになります。

つまり、あの「195メートル」という端数は、王室の人々が観戦しやすいようにコースを延ばした結果として生まれたものなのです。この偶然のような変更が、後の世界標準となるとは、当時は誰も予想していなかったでしょう。

ドランドの悲劇が生んだ感動と距離の定着

このロンドン大会のマラソンでは、歴史に残る大事件が起きました。イタリアのドランド・ピエトリ選手が、トップで競技場に入ってきたものの、極度の疲労によりゴール直前で何度も倒れてしまったのです。

ふらふらになりながらもゴールを目指す彼の姿に、観客や役員は心を打たれました。見かねた役員が彼に手を貸し、助けられながらゴールテープを切りました。しかし、これはルール上「外部からの助力」とみなされ、後に失格となってしまいます。優勝は2位でゴールしたアメリカのジョニー・ヘイズ選手となりました。

これが有名な「ドランドの悲劇」です。

失格にはなりましたが、ドランド選手の不屈の精神は世界中に感動を与えました。アレキサンドラ王妃も彼の健闘を称え、特別な金杯を贈ったと言われています。このレースの劇的な展開と、26マイル385ヤードという距離は人々の記憶に強く焼き付き、「マラソンといえばこの距離」というイメージを決定づける要因の一つとなりました。

第8回パリ大会で正式にルール化されるまで

ロンドン大会の後も、しばらくの間は大会ごとに距離がまちまちでした。しかし、1924年の第8回パリオリンピックを開催するにあたり、国際陸上競技連盟(現在のワールドアスレティックス)は、マラソンの距離を統一する必要性を感じていました。

そこで基準として採用されたのが、あの記憶に残るロンドン大会の「26マイル385ヤード(42.195km)」でした。ドランドの悲劇というドラマを生んだこの距離こそが、マラソンの正式な距離としてふさわしいと判断されたのです。

こうして、王妃の要望と選手の悲劇によって生まれた偶然の距離が、正式なルールとして定着しました。現在、私たちが走っている42.195kmには、100年以上前のロンドンでの出来事が深く関わっているのです。

日本におけるマラソンの歴史と「遠足(とおあし)」

日本は世界でも有数のマラソン大国と言われています。駅伝の人気や市民ランナーの多さからもわかるように、日本人には「走る」文化が深く根付いています。では、日本にマラソンという言葉や概念はいつ頃伝わってきたのでしょうか。

江戸時代に行われた「安政遠足」がルーツ

日本におけるマラソンの発祥と言われているのが、江戸時代の安政2年(1855年)に行われた「安政遠足(あんせいとおあし)」です。当時の安中藩(現在の群馬県安中市)の藩主、板倉勝明が、藩士たちの心身を鍛えるために行った徒歩競争が起源とされています。

藩士たちは、安中城門から碓氷峠の熊野権現までの約30kmの山道を走りました。これは純粋なスピード競争というよりは、心身の鍛錬を目的としたものでしたが、順位やタイムを記録しており、現在のマラソン大会の原型と言えるイベントでした。

現在も続く伝統

この史実に基づき、群馬県安中市では現在も「安政遠足侍マラソン」が開催されています。多くの参加者が侍や忍者などの仮装をして山道を走るユニークな大会として知られ、日本のマラソン発祥の地としての誇りを今に伝えています。

明治時代に初めて「マラソン」という言葉が登場

「マラソン」という言葉が日本で初めてスポーツの大会名として使われたのは、明治42年(1909年)のことです。神戸の湊川から大阪の西成大橋までの約32kmを走る「マラソン大競走」が開催されました。

当時の新聞記事などを見ると、まだ「マラソン」という言葉が一般的ではなかったため、「長距離競走」や「耐久走」といった表現も使われていました。しかし、この大会をきっかけに、長距離を走る過酷な競技として「マラソン」という呼び名が徐々に人々の間に浸透していきました。

金栗四三と日本マラソン界の発展

日本のマラソンを語る上で欠かせない人物が、「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなくりしそう)です。彼は1911年に行われたオリンピック予選会で、当時の世界記録を大幅に更新するタイムを出して優勝し、翌年のストックホルムオリンピックに日本人として初めて出場しました。

ストックホルム大会では、猛暑による熱中症で意識を失い、レース途中で倒れて介抱されるという悔しい経験をしました。しかし、彼はその後も現役を続けながら、箱根駅伝の創設に尽力するなど、日本の長距離界の発展に生涯を捧げました。

メモ:54年越しのゴール
金栗四三には有名なエピソードがあります。ストックホルム大会で途中棄権扱いとなっていた彼は、54年後の1967年、記念行事に招待されてストックホルムの競技場を走り、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という記録でゴールしました。「長い道のりでした。その間に妻をめとり、6人の子供と10人の孫ができました」という彼のコメントは、世界中で愛されています。

「マラソン」という言葉が定着するまで

明治から大正にかけて、日本のスポーツ界が発展する中で、「マラソン」という言葉は完全に定着しました。当初は「競走」や「かけっこ」の延長線上にあったものが、専門的なトレーニングや精神力が求められる高度な競技として認識されるようになったのです。

また、日本では「駅伝」という独自の長距離リレー文化が生まれ、マラソンと並行して発展してきました。タスキをつなぐという精神性が日本人の気質に合い、長距離走への関心を高める大きな要因となりました。今日、日本が多くのマラソンメダリストを輩出している背景には、こうした長い歴史の積み重ねがあるのです。

現代のマラソン文化と語源の意義

今やマラソンは、トップアスリートだけのものではありません。東京マラソンやホノルルマラソンなど、数万人規模の市民ランナーが参加する大会が世界中で開かれています。最後に、現代におけるマラソンの楽しみ方と、語源を知ることの意味について考えてみましょう。

市民マラソンへの広がり

かつては「苦しい」「過酷」というイメージが強かったマラソンですが、現在では「健康」「達成感」「お祭り」といったポジティブな要素が強くなっています。自分のペースで走り、沿道の声援を受けながらゴールを目指すスタイルは、年齢や性別を問わず多くの人に愛されています。

また、ご当地グルメを楽しめるエイドステーション(給水所)や、観光名所を巡るコース設定など、走ること以外の楽しみも充実しています。語源となったフィリッピデスのように命がけで走る必要はなく、現代の私たちは走る喜びを自由に味わうことができるのです。

「マラソン」という言葉が持つイメージの変化

「マラソン」という言葉は、スポーツ以外でも使われるようになりました。「勉強マラソン」「読書マラソン」のように、長い時間をかけてコツコツと取り組む活動の比喩として使われることもあります。

これは、マラソンが単なる距離の移動ではなく、「粘り強さ」や「継続する力」の象徴として認識されている証拠です。古代の兵士が持っていた「使命を果たす強い意志」は、形を変えて現代の言葉の中にも生き続けています。

語源を知ることで深まる走る楽しみ

今回ご紹介したように、マラソンには古代ギリシャの戦争、伝説の兵士、植物の名前、王妃の要望、そして数々のドラマチックな歴史が隠されています。

次に走る時、あるいはテレビでマラソン中継を観る時、ふと「この42.195kmには、そんな歴史があったんだな」と思い出してみてください。ただの数字や距離が、少し違った景色に見えてくるかもしれません。歴史を知ることは、スポーツをより深く、より豊かに楽しむためのスパイスになるはずです。

まとめ:マラソンの語源を知って走りをより深く楽しもう

まとめ
まとめ

今回は、「マラソン」というキーワードから、その語源や歴史、42.195kmの由来について解説してきました。要点を振り返ってみましょう。

まず、マラソンの語源は、古代ギリシャの「マラトンの戦い」です。アテナイ軍がペルシャ軍に勝利し、その知らせを届けるために伝令兵フィリッピデスがアテネまで走り抜けたという伝説が起源となっています。また、「マラトン」という地名自体は、植物のウイキョウ(フェンネル)に由来しているという意外な事実もありました。

そして、私たちがよく知る42.195kmという距離は、1908年のロンドンオリンピックで、イギリス王妃アレキサンドラの要望によってコースが延長されたことがきっかけで生まれました。ドランド選手の悲劇的な失格劇とともにこの距離が印象付けられ、後のパリオリンピックで正式に採用されたのです。

日本においても、江戸時代の「安政遠足」から始まり、金栗四三らの活躍を経て、マラソンは国民的なスポーツへと成長しました。

普段何気なく耳にする「マラソン」という言葉には、数千年にわたる人々の情熱やドラマが詰まっています。この歴史を胸に、ぜひあなたもマラソンの世界をさらに楽しんでみてください。

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